昭和五十二年九月九日 朝の御理解
御理解第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
ここにお参りをなさっておられる方達は何を求め、何を尋ねて信心の目当てとし、信心をいよいよ進めていかねばならないかと言うこと。只生活の上に、右にして良いやら左にして良いやら人間凡夫では迷うことがございます。そういう時に右が良いぞ、左が良いんだと教えて頂くといった様なことを尋ねたのでは、全然合楽に御神縁を頂いておる値打ちがない。なるほど合楽に御神縁を頂いとる人達は、一事が万事に神様にお願いをすると同時に、例えば福岡の高橋さんなんかの場合には、もう一日のことが全部お伺いをしてからです。そげなことせからしかと本当に思うごたることを一々お取次を頂いてからです。もう小さい二万か三万の、まあ例えば小さい道具を買われるにしても、やはりどういう店から、どういう形の、どういうものを買ったら良いかということ。そしてまた帰られて、またああこれもお伺いをしそこのうたというのは、日に何回も電話で掛かってお伺いされることがございます。ですから、それが私は、いけないということではない。もう神様を中心にした生活ですから。それは神様を便利に使っておるようなことにもなりかねないのです。そうでしょうが。ああ親先生が言わっしゃる通りにすりゃ良い品物が手に入る。しかも値段も安かった。ま一時待てとおっしゃったから待っとったら、こういうおかげを頂いたといった様なことだけならば。勿論高橋さんの信心は、そういう簡単なところからじゃない。もういよいよ合楽の信心を本当にマスターすればマスターする程、そうせずにはおられないというところに、高橋さんの信心の素晴らしさがあると思うんですよね。自分の都合の良かことだけは、我が良かごとしといて、都合の悪いことだけを御神意を伺う、様々にあります。けれどもそういう様なことがです、ここへ参って尋ねるところがなかったけれども、この方は参って尋ねるところがなかったけれども、皆はそれを尋ねて帰ることが出来る。片便の願い捨てではなくて、帰りにはちゃんとその御返事を頂いて帰れるということが有難い。だから最後におっしゃっとられます様にね、「遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて身凌ぎをする様になれ」ということが尋ねる眼目なんですね。いわば尋ねるということは、又は求めるということです。
そこでなら真の信心とは、真の信心とはと、真の信心を求め続けさせて貰うて、様々ないうならば難儀を通し生活を通して、真の信心へ真の信心へとお互い進んで行かなければならない。進んで行っておるけれども、どうも行き詰まりがあったり、それこそ目先が真っ暗になって、分からないようなことがあるね。そういう時に、いわば道を求めなければならない。光を求めなければならない。そこに光が与えられ、道をはっきりと明示して頂くというところに、大体合楽の値打ちがあるんだと思うんです。お道の信心が百十何年間、続けられて参りました。そして、いうならば真で助からんことはない。いや真の信心、真の道と言うて、まあ言い続けられて参りました。ところが、その真ということが、または真の道ということが、真の信心ということが、いかにも不明瞭であったということでございます。私共も、やはりそれを願い求め続けた。真で助からんことがないと言われるから、一丁本気で真にならねばならんが、只人間で考えた真ぐらいのことじゃなかろう。その証拠におかげを受けられん。おかげの受けられる様な真とは、または間違いのない天地に繋がる真の道とは、いうならば真の信心とはと求め求め続けて参りましたけれども、はっきりこうだというものが与えられなかった。
昨日、一昨日でしたかね。研修会、何かの研修会の時でした。佐田先生が発表しとりましたが、本当に真の信心を求め続けて、教師の資格を頂いて、それからというものは、もう本当におかげを受けられた偉い先生、高徳な先生という先生の話をもう聞き伝えに聞いて回った。偉い先生が書かれたという御本ももう殆どお道の信心の御本は読破した。とうとう最後には、当時銀座の教会の湯川先生の所で、三年間みっちり信心の修行をさせて頂いたけれども分からなかった。おかげに繋がる、本当にこれが徳になるんだ、光になるんだというものが与えられずして、いうなら迷いに迷うておるところに、あちらの弟になる、今本部に勤めております先生が、丁度ここの竹内先生と同期でしたから、ここに暫く修行に来とりました。そして、それこそ本当に二人見る様に、まあこれは私どもが見ましてもそうでしたけれども、帰る時と来た時の先生の信心というものが、手のひらを返す様な信心、生き生きとなって帰った。そういう様なのを眼の辺りに見て、まあ縁違い手続き違いではあるけれども、いろんなそれこそ様々な、いうならば越すに越されん様なところもあったのだけれどもね、そこを踏み破るようにして、合楽に、しかも本気で合楽の信心を体得しようという信心にならせて頂いたわけです。そして、ここへ来て分からせて頂くことは、これなら絶対だ、こんなら間違いがないという、ほぼ確信が出来てきた。それは今、合楽で言われておる合楽理念のことであったね。ですから、その合楽理念をマスターすると同時に、その合楽理念以前のものの修行を、いわば日々一生懸命、皆さん御承知のように非常に真面目な先生です。実意丁寧な先生です。ですからもう本当に、昨日、一昨日でしたか、ここにお届けに参りまして、御両親のお届けをして、本当におかげを頂きまして、初めは御両親も大反対ではなかったんでしょうか。それから御両親もここに移り変わり、息子がお世話になることのお礼お届けに見えました。そして合楽の信心がほぼ分かられる様な感じであった。昨日、一昨日のお届けの中には、「両親がおかげを頂いて、合楽理念を段々理解してくれる様になりました。」というお礼のお届けがあったんです。
私は、ここにはっきり言えれることは、確かに百十何年間、真だ、真の信心だ、真の道だと言いながら、実に不明瞭であったということなんです。これだぞと、しかもそれが難しくて、普通の人間では出来んといった様なね。例えばキリスト教にみる、又は仏教にみる五戒とか十戒といった様な、とても人間業では出来ない様なことではなくて、その気になれば楽しく嬉しく、しかも有難う、それが身に付いてくれば愉快になれる程しの、いわば教導を受けながらです。合楽理念が絶対の理念としてです、ここに確立をみることが出来た。それを自分のものにし、自分のものに確立していくということは、それはいわば大変なことなんです。いうなら一生かかってする大事業なのです。限りがないのですからね。いかに完璧の域に入ったというても、完璧を目指すということは一生かかり、いわば霊の世界に入ってでも、やはりこれを繰り返していかなきゃならんのですけれども、一歩一歩生神へ向かって近付いて行く。その生神の光が様々なおかげにも伴うて来る。人間幸せの、いわゆる根本が合楽の理念になっておる。しかも今まで迂闊であったなと、真の信心、真の道と言いながら、こんな些細なことにこんな迂闊なところがあった、という様なことを気付かせて頂き、ハッキリ明示してあるわけですね。いうなら成そうと思えば子供でも成せる様なことをおろそかにしておったといった様なことはそれなんです。天地の道理を基にしてということは、いわゆる「天地日月の心になること肝要である」ということである。それを合楽では具体的に成行きをいよいよ大事にしていかなければいけないぞ。しかもその成行きが、大きな成行きが、自分で受けられない様な成行きになって来たんでは、折角の道を途中で止めなければならないから、まずは成行きを願えといってあるです。神様、折角成行きを大事にして、一生懸命稽古をさして頂いとりますけども、例えば私の力、私の信心では受けられない程しのことが、もしここに起こってくると、迷いが起こったり、挫折する様なことがあってはなりませんから、私で受けられる成行きを願えと。私で受けられるような成行きですから願ってある、例えば、から起きてくるその問題は、もう私で十分やりこなせれる、頂きこなせれることだけしか起こってこんということ。それを自分でこなしきらんごたる時には、もう一遍、生神金光大神様、天地金乃神様とお縋りしておる内に、ああここはいついつ、あん時、ここは習ったところじゃったということが分かるです。決して神様は試験をされるのに教えもせんところを、試験に出しなさる筈はないということです。そういう例えばおかげを頂かせて頂いて、合楽理念をいよいよマスターする、合楽理念の行者というと大変厳しいけれども、生活全体の中に合楽理念、いうならば商売するならば、合楽理念を以て商売をする以外にはないという程しのおかげを頂かなきゃならんね。
僅か布教に出て、四ケ月足らずの末永先生がです。先日の、例えば祈願祭を仕えさせて頂いて、もうそれこそ干天続き、もうそれこそ青いものが枯れ果ててしまうごたる大変な干ばつの年にです。もうそれこそ、あの広大な草原です。私どもには想像も付かないですね。見渡す限りの草原が、それこそ真っ赤な火を上げておる、いわゆる山火事の様なものでしょう。水気がないからどうも仕様がない。そういう中にあってです。なら祈願祭を仕えさせて頂いた。皆の祈り願いをそこに結集して、祈願祭が五穀豊饒、様々なことの大繁盛の祈願祭があった。その夕方からシトシトと降り出したと。手紙を書いておる今に、その雨が降り続いておりますというのです。もう私は、ここんとこ手紙を読んだ時、感動しました。もう本当に感動しました。もう本当に合楽だけのことではない。それこそ南米の果てにまでです。天地の親神様が自由になっておって下さるということなんです。もうこれでまた、現地の人達が、どの位びっくりするかわからんと。私は思わせて頂きましたね。合楽では、お広前で一杯の人が親先生のお話を頂いておる。この障子を明けたら、その続きはビリグイ教会のお広前につながっておった、と言うのです。それこそ度々のことですけれども、本当に沢山の参拝者があり、もう掛け出しをしましたけれども、もう掛け出しでも入りきらんで、もう外から拝んで帰るという様な盛大なお祭りを仕えさせて頂いた。そして先生が言っておることは、どういうことかというと「大先生、おかげを頂きまして、この様なおかげを頂きましたが、とにかくこの南米の地にこの御比礼が輝き出したということはです、結局、合楽理念を以てする外はありません」と言っております。
ですから、お百姓する人が合楽理念に基づいた百姓、合楽理念に基づいた家庭の生活がなされる、もうこれ以外にはないんだと思い込んで、それをなさせて頂くことです。家庭生活の中に、女の方が炊事場に立って、男の方が自分の職場に立って、果たしてどれだけ合楽理念がその中に入って行っておるかということを、もう一遍考え直さなきゃいけない。だから合楽理念を以てする外はないという程しの体験をです、皆が積んでいくということです。 昨日、研修の時に、例えばここで「黙って治める」といった様なことなんかね、もうこりゃ合楽理念の中の、やはり芯にもなる様なことでございますけれども、例えば人間の知恵で育てるという、知育ですね、いわゆる。でなくて徳育だと、徳で育てなければならない。その徳育を無視して、いうならば私にいや、お喋りとしか思われん。とうとうといかに喋って言うて聞かせてして見せたところで、そんなものじゃほんなものにはならん。本当にそこに目に余る様なことが、例えば子供の上にでも起こったならば、それをいよいよ自分の信心として、黙って治める行き方をすりゃ、もうそれこそ徳育ですから。自分の信心、自分の徳によって育てるということがこんなにも素晴らしいことなんだとね。黙って治めるといった様なことが、自分の身に付いて参りましたら、もうこんなに素晴らしいことはないです。それが最近の金光教では、いうならば頭で、いうならばどういう様な話し方、どういう様な行き方、どういうようにしたら信者が増えるかといった様なことだけに血道を上げておるという感じ。
昨日、研修の時に若先生が申しておりましたが、二、三日前に教務所で、北九州地区の青年教師と青年の方達の合同の研修会がございました。何か大阪の大変お話の上手な先生が見えておられましたそうです。その先生が言われることはね、「これからの金光教はね、例えば日曜を作らにゃいけん。教会でも先生でも人間だから日曜がなからにゃいけん。そして晩は九時なら九時迄という時間を切ってからの布教でなからにゃいけん。そして金光様の先生でも、やっぱりたまには呑みにも行かれる様な、またはそういう組織といった様なね、ものにしていかなけばいけない。」と言う。もう実に垢抜けした、本当に皆が、大衆が本当にそうですといった様な話だったそうです。ところがどっこい、合楽から行っとる者は、それと反対のものを持っとるもんですから、もうえらい突っ込んでお話を、特に和教さんと渕上君が行っとりましたから、それに竹内先生が行っとりました。それでもうギリギリのところまで追い詰めて聞いていったわけです。そしたら先生が言われることがね、「五十年先に勝負しましょう。」とおっしゃった。「私が言っておることが本当か、あんた達が言っておることが本当か、五十年先を見とって見なさい。必ず、その頃にはその教会にも日曜が出来て、教会の先生も普通の勤め人と同じ様な給料を貰うて、そして教会が立っていく様な、たまには遊びにでも、呑みにでも行けれる様なことにならなければ、金光教はタメだ。」という、その先生の持論がです。「今、あなた達から突っ込まれても、どうとも返事の仕様がないけれども、まあ五十年先に勝負しよう。」と言われたということを聞いて、私は本当にそうだなと思いました。本当に五十年後に勝負ですよ、やっぱり。今じゃ分からんです、どっちが本当か。「只合楽は、それでもこういうおかげの実証がありますよと言っても、そういうおかげならば、撫でさすりしながらの先生のところで、あんた方よりもっと繁昌しよる教会があるよと。只有難い有難いだけで、それこそあんた方の何倍というごたる大変な大きな教会があるよ。只お願いしてお願いしてから、まるっきり願いの信心の様にして、あんた方の何倍という様な大きな教会があるよ。」と。だからそういうものと同じに、合楽が見られておるということになるわけです。合楽理念、いわば合楽教会にはね、それこそ合楽理念という確固とした助かりの理念があるんだ、ということを今言うてもです。「今助かりよるとは、あんたらぎりだけじゃないよ。他のとこも、只拝み信心でも助かりよるところが沢山あるよ。」と。言われてみればどうにも仕様のないこと。そこでです、合楽の、私が椛目で人が沢山どんどん助かる時分に、久留米のある先生がね、「今に見よらんの。流行り神様じゃけんで、十年しよりゃ潰れるが。」と言わっしゃった。またそういう例もありますよね。一つの偉い何々様が発光しござる。それと同じに見とったわけです。だから十年すりゃ分かる、心配するごといらんがのと言うて、先生方に言われたという話を聞いたことありますけれども、十年したらいよいよ繁昌する。二十年すりゃ、いよいよ発展しておる合楽教会の現在のところを見てです。なら五十年先のことは分からないということですよ、やはり。そこで私は今日は皆さんに、「ここへ参って尋ねるところがある」ということは、こんな素晴らしいことはない。しかも私に言わせると、はっきり言うならばです。それこそ佐田先生じゃないけれども、真の信心を求めて、それこそ高徳な先生、偉い先生という先生の話も聞いた、教えも受けたけれども、分からなかった。三年間も当時日本一と言われる様な湯川先生のお弟子にもなったけれども分からなかった。そしてたまたま合楽を捜し出して、おかげを頂き出して、もういよいよこれに極まったという修行が出来ておるという佐田先生の様にですね。それを尋ねて求めて、自分のものにしていかなかったらです、どんなに素晴らしい助かりの理念がそこにあったところで、それを知っておるだけでは、恐らく五十年後は、いうならば親先生の時にはあんなじゃったけれども、以外になったらもうあんなになったという事になり兼ねない。というと、外でおかげを受けられた大変な御比礼の輝いた教会が、二代、三代になっていくにしたがって、衰微しておるのと同じことになってくるわけです。
だから、そうなっては金光教が潰れるです。合楽が潰れるということはないです。そうなってはもう金光教がです。現に、いうならば「御取次成就信心生活運動」という、それこそ素晴らしいスローガンです、これは。もう金光教の神髄です。御取次が成就するということは、その運動が展開されて、それこそ一生懸命、百年祭を目指して、もうあの手この手をいろいろ使うておられるにもかかわらず、増えるどころか、いうなら五十万の、いうならば信奉者が二万切れたというのが、現在の金光教の真相です。おかしいでしょう。だから「御取次成就信心生活運動」の内容が、いよいよ全教が一新して、いうなら私に言わせると革新です。一新して、全教がいっかのじつをあげて、合楽示現活動に参画するという、そういう信心の運動が中に入って広めるところの働きにならなければならないということです。それに皆さんが何を求めるかと、何を尋ねるかと、日々のいうなら茶飯事のことも尋ねて良いのです。けれども一番尋ねなければならんのは、合楽理念の、いうならば実行を行の上に表して、家庭の上に表しておる内にです。ここんところが行き詰まって、分からん様になりましたといった様なところを尋ね求めして、そこを突破していくところの信心が限りなく、これは続けられて行かなければならない。合楽理念は、決して私の思索から生まれたのではない、また私の想像からでもない、推理からでもない。勿論ドグマ的なものでもないね。例えば利とか得とかいう、そういう利害関係から生まれたものでもない。いよいよです、生活の全面に徹底して、光明世界を導くところの、いうならば理念であり、真理であるということをね。これは昨日、研修の時に話しました。この内容について話したことです。私の思索から生まれたんじゃない。想像やらといったものじゃない。何かいかがわしいドグマ的なものではなおさらない。絶対の、いうならば人間が、本当の光明世界、本当に幸せになっていくところの理念であり、同時に真理なんだ。それを尋ねずして、只目先のおかげのことだけを尋ねるということであったら、必ず五十年先には合楽もやはり衰微するです。
この頃、大阪の若い先生方が見えて、ここの一日をまあ調べて帰るというか、写真やら八ミリやらに全部写して帰られました。お話も合楽理念、いうならば確かに大阪辺りにも大変な教会がございます。けれども、もうあれは過去のものだと。もうこれからは衰微するだけのものだと、いうふうに言ってます。そこで、今生き生きと御比礼を立てておられる合楽に来たわけはです、「先生、あなたは今の合楽の御比礼をどう見ておられるか。先生が亡くなられたら、やっぱりよその教会と同じ様に二代になれば、三代になれば衰微するような信心であったら、私どもは頂けない。」。「サアそれは私が死んでみらにゃ分からんばの」と私は言ったことでした。けれども合楽にはね、合楽理念がある。だからこの合楽理念を、なら子供達が、信者さん達がマスターして、それをもって商売は合楽理念を以てする以外はない。百姓は合楽理念を以てする以外はないといった様なものを身に付けていく限り、教祖様がおっしゃっておられる様に、目出度目出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁るというではないか。生神金光大神は家繁昌子孫繁昌の道を教えるのじゃとおっしゃる。その道の生粋を、その教えの生粋を合楽理念に纏めてあるのだから、私は、まず合楽は私の代よりも子供の代の方が繁昌すると思うがね。その証拠には合楽理念を以て、いうなら私のこれは夢ですけれども、それこそ全世界に合楽理念の種を撒いて回ろうと私は思う。その芽が、いうなら一粒万倍のおかげになっていくならばです、必ず繁昌のおかげを私は確信しておる。」とまあ言うたけれども、今いう五十年先に勝負しようという時にです。その合楽理念が只もう頭脳のもの、頭のもの、只教学的なものだけになってし、おわっておったら、それは百年後、いうなら二百年後益々、只合楽では昔はこういう風なことを言いよった。なるほど教学してみると素晴らしいことだ。なら今の金光教の教祖の信心を教学して素晴らしい、素晴らしいというのと同じことになるです。それが皆さんの本当の血肉になっておらなければ。願わくばです。だから本気で合楽理念を以て、そのことを成す以外にはないということを今日は。そこを、いうならば「ここに参って尋ねるところがある」ということ、そういうことが尋ねられるということが有難い。そして、そういう信心をするからこそ、必ず身に徳を受けることが出来る。身凌ぎの出来るような信心も、又そこから開けて来るわけですね。どうぞ。